皆様、いかがお過ごしでしょうか。BDC PILATESアドバイザーのHasegawaです。
ニューヨーク、この冬は雪も殆ど降らないまま…3月を迎えました。
とは言え、風が冷たい日もありまだまだ寒いので、ロングコートにマフラーと手袋、そしてイヤーマッフルというのが私の冬の定番スタイルです。
今回は、ニューヨークのNOLITA地区をご紹介しながら、私のピラティスインストラクターになるまでのことについて少しお話ししたいと思います!

NOLITAノリータ(North of Little Italy “リトルイタリーの北”)をご紹介します。
この辺りは、元々ロワーイーストサイドと言われ、20世紀始めにドイツやオランダ、東ヨーロッパなどの移民が移り住んでいた地区で、
特に1960年ごろまでは、ユダヤ教の人々の居住区でした。
映画”Once Upon a Time in America”の舞台にもなった地区ですね。
元々、貧しい移民の街だったので、観光では多分あまり訪れない地域かと思いますが、
2000年を過ぎた頃から高級コンドミニアムや新鋭デザイナーがお店を構え始め、
少しずつお洒落なブティックやカフェなどが出現、NOLITAと呼ばれるようになりました。
この辺りのカフェやレストランをちょっと覗くと…この日も、地元の人々でどこも賑わっていました。
この辺りの街の特徴は、ご覧の通り、古いプレウォー(戦前に建てられた)アパートメントに、派手なストリートアート!!です。
とにかく雑多な街並みなので、(ハッキリ言って、この辺りはあまり綺麗とは言いにくい!)落書きもたくさんありますが、
下の写真の様に、落書きではなく、きちんとアーティストの名前も記載され、アートとして制作されたものも沢山あります。
NOLITAは、Houston Street”ハウストンストリート”という3車線ある広い道路の南側で、
この通りから北はEast Village”イーストビレッジ”と呼ばれ、日本食レストランなどが多いエリアになります。
そして、古くからこの辺りに残るロワーマンハッタンの名物は、ガイドブックなどでもよく紹介されている”KATZ’S”というデリカテッセンです。
コーンビーフとパストラミがこちらの名物で、創業は、なんと1888年!!
ロワーイーストサイドの移民たちに欠かせない食材のお店として、オーナーが何度か代わりながらも、この地で発展してきた老舗店です。

ところで、このKATZ’Sの背景に写っている左側の高層マンションに、私は以前ピラティスを教えに行っていた事があります。
ドアマンが受付に常駐しているいわゆる高級コンドミニアムで、1階にジムがあり、そこにはなんとしっかりとピラティスマシンが完備されていたのです。
NOLITAは、地元で人気のカフェやレストラン、戦前からのアパートと高級アパートやブティックホテルなどが混在している珍しい地域ですね。
さて今回は、私がニューヨークでピラティスインストラクターになるまで、のお話を少ししたいと思います。
私のピラティスとの出会いは、ニューヨーク大学の修士課程のダンス教育学科に在学中だった事は、昨年のブログ記事で少しお伝えしました。
ダンスの実技を始め、ダンスの歴史、振付、解剖学、ダンスセラピー、ダンスの教え方など…踊りに関するありとあらゆる教科を学ぶのです。
ダンスの学科って楽しそう〜って思われがちなのですが、半端なく勉強が大変な上に実技のクラス、リハーサルや公演と、まさに身も心も細る(?)日々でした。
そして…睡眠不足が良くなかったんでしょうね…私は最終学年に膝の怪我をして、一時期踊れなくなってしまいました。
手術が必要なほどの重傷ではなかったので、医師の診断のもと理学療法に通い、普段の生活には不自由ないくらいには回復し、無事に大学院を卒業するもできました。
しかしニューヨーク大学卒業後の私は、リハビリを続けなければならず、そのためにもピラティスのマシンを学ぼうと、スタジオを色々探し始めました。
そして、知人の紹介で訪れたマンハッタンのダウンタウンにあるケリー•ケインというピラティスのマスターインストラクターが指導をするピラティススタジオが、私の運命を変える事になりました。
そのスタジオでのレッスンは、今まで私が体験して来たピラティスのクラスとは、全く違いました。
基礎的な事(ファンダメンタル)からはじまり、全てのエクササイズで正しいポジションが取れるように、動きを分解して教えてくれるのです。
ケリーに出会う前も学校やスタジオででピラティスを受講する機会は多々あったのですが、
そこではエクササイズをどのように行うか、いわば外見からのアプローチで教わっていた感じでした。
しかしここでは、関節の構造から一つ一つの動きを理解していくので、”理想的な動き”は”一個一個の関節を正しく動かしていく事によって生まれる”ということを私は初めて知りました。
(今、BDC PILATESが行っているクラスは、まさにこのメソッドです!)
この頃、私は年齢的にもダンサーとしてのキャリアには限界がある事は予想していたので、ピラティスインストラクターとして、今後本格的にやっていこうと決心しました。
(ダンサーのためのピラティスマットクラス:Peridance Centerにて)
私が最初に受講したケリー•ケインのピラティスマットのコースは、
2週間週末に行われ、解剖学の基礎と実技を教える練習などで、早ければ数週間で修了します。
しかしそのあとニューヨークのピラティススタジオで教えるためには、マシンピラティスの資格を持っていることが必要でした。
私はマットコースに続きマシンのコースを受講するために、両方のコースに申込みました。
ニューヨーク大学卒業後、私は、United Nations(国連)の課外スクールで、子供達にダンスを教えていました。
そのため週末に開催されるマシンの資格コースを選んだのですが、12人の同期がいるなか、2人以外は全員ダンサーでした。
その頃のニューヨークは、ピラティスインストラクターがダンサーの副業として、人気が出始めた頃でした。
さて、私が資格コースを始めた時、まだ膝の怪我が完治したとは言えない状態でした。
大抵のエクササイズは大丈夫でしたが、膝をつく姿勢のものやプランク(腕立て伏せ)のポジションができませんでした。
インストラクターとして、エクササイズはもちろん全てできた方が良いのですが、
例えできなかったとしても、受講されている方に的確に指導できれば良い…という概念がこのスクールにはあり、
私は必死にクライアントの方の体を観察し、その方が抱える課題や目標に沿ってメニューを組み、レッスンを行えるようになるよう勉強をしました。
この過程で、自分自身の膝のリハビリに必要な知識をたくさん得ることができました。
(at Gramercy Pilates: Ms. Takeshita and me: Takeshita先生は現在BDC PILATESで講師として活躍中です!)
ピラティスの資格コースを受講して私が実感をしたことは、”ただ自分がエクササイズができるだけでは教えられない”と言うことです。
自分以外の人にエクササイズを正しく的確に伝えるには、全く違うスキルが必要でした。
ダンスを教える時とは違い、ピラティスを教えるには比べ物にならないほど、多くのボキャブラリーが必要でした。
今でこそ考えなくても言える、”ポジションを伝える用語”や”動きを表す表現”も、時間をかけて少しずつ覚えていきました。
当然英語なので、その頃は他のスタジオでもピラティスのクラスなどを頻繁に受講して、講師がどういう言葉を使って教えているか、必死で覚えていった記憶があります。
余談ですが、私が資格コースを受けていたグループの中にもう1人日本人のダンサーの受講生がいました。
2人で一緒に練習をしたり、教え合ったり…苦労を共にした、まさに戦友という感じ。
現在は彼女はダンスを中心に教えていて他の国に住んでいるのですが、現在でも交友が続いていて、ピラティスが繋いでくれた素敵なご縁だなーと感じます。
それでは、今回はこの辺りで…(資格コースについては、次回に続きます。) Have a nice day!!
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